モンティホールジレンマ再び

確率のジャンルはとっつきやすいので、発言小町のような場所ですら盛り上がることができるのですよ。
 確率ゲーム
もう何回も見てきたモンティホールジレンマに関する議論がまったく同じように繰り返されている。
ちょっと違うのは、議論が収束するまでにかかる時間だ。
通常20−30くらいのやりとりで収束するモンティホールジレンマに関する議論だけど、ここでは100以上も続いている。
これは、投稿してから掲載されるまでに約一日のタイムラグがあるという発言小町のシステムに起因するところも大きい。
それはさておきこの議論から学べることが1つある。
「自分が少数派に属している場合、自分のほうが間違っている可能性について慎重に検討したほうが恥をかかずにすむ可能性が高い」ということだ。
この発言なんか、議論がここまで来てるのにこの内容。ちょっと自信満々すぎですね。
このように自分以外の大多数が間違っているという強い信念を持ってしまう人の存在と言うのは、いわゆるトンデモ科学につながっているような気がします。


最近なんか発言小町観測所みたいになってきたね。

結婚平均年齢はまだまだ引きあがりますよ

明治安田生活福祉研究所の発表によると

独身者が結婚したい年齢は男性33.9歳、女性32.2歳……。明治安田生活福祉研究所が首都圏の20〜30代を対象に行った調査で、こんな結果が出た。

だそうだ。
まあ独身者が結婚したい年齢、ということを分かっている限りこの結果にはそれなりに意味があるとは思う。
しかし

03年の国の人口動態統計の平均初婚年齢(男性29.4歳、女性27.6歳)よりも4歳程度高く、晩婚化がさらに進む可能性もある。

という見方はちょっといただけない。
結婚していない人だけからアンケートを取っているということは、当たり前だが既に結婚してしまっている人を除いた偏った平均になっているのだ。


結婚平均年齢と結婚したい年齢の関係は、平均寿命と平均余命の関係にも似ている。
平均余命はある年齢まで既に生きている人が平均的にあと何年生きられるかという数値だ。
その年齢までに既に死んでしまった人は統計から省かれる。
そして、平均寿命というのは0歳児の平均余命のことを言う。
ちょっと古いデータだが平成12年の統計では男性の平均寿命は77.64歳になっている。
既に77.64歳を過ぎている人は別に全員が明日死ぬわけではないので、例えば80歳の人でも平均的にあと7.86年、つまり87.86歳まで生きることが期待できる。
"現在の年齢+平均余命"を全体で平均すると現在生きている人が何歳まで生きるだろうかという数値が出るが、これは単純平均で82.4歳である。
これをもって、「この数値は現在の平均寿命の77.64歳より長いので寿命はこれからも延びることが予測できる」と言うことはできないのだ。
(ほんとは人口分布で加重平均しないといけないのだが例え話なので適当に流してください)


同様に、まだ結婚していない人の結婚希望年齢と初婚の平均年齢を直接比較することにはなんの意味も無い。
このデータからは結婚年齢が今後高くなるとも低くなるともなんとも言えないのだ。
間違いなく言えることは、僕が結婚年齢を引き上げているということである。
ところで最終的に結婚できなかった場合の統計上の取り扱いはどうなるんでしょうか?

教えて君

例によって発言小町を見ていた。
発言小町ではまず件名の一覧が表示される。
fjのころから、件名は内容を分かりやすく簡潔に表しているものがよいとされている。


ところでこういう質問したりアドバイスをもらったりする掲示板ではまず、なるべくたくさんの人に読んでもらうのが大切だ。
なるべく分かりやすい件名をつけるとたくさんの人に読んでもらえるだろうか。
実は今日小町の件名一覧を見ていて思ったのだが、僕がどうしても無視できなくてつい開いてしまう件名というのがあることに気がついた。
それは「教えてください」というものだ。
「アドバイスお願いします」などもそうだが、こういう内容について一切触れていない件名を見ると、「こんな件名じゃわかんねえだろバーカ」と思いながら開いてしまうのだ。
発言小町っぽく締めると、"これって私だけなのでしょうか?"

論理学ジョーク

たまたま見かけたジョークだけど、これ
 College of Logic
そこそこ面白かったんだけど、なにが面白かったんだろうと考えてしまった。
英語だとわざわざ読もうと思う人はあんまりいないかもしれないからちょっと訳してみる。

2人の男が高速道路を走行中にある看板が目に付いた。
"論理大学 5キロ"
それがなんなのか分からなかったが興味を持った2人は次の出口で高速を降りた。
運転手が様子を見に入っていくと、説明してくれそうな教授らしき人物を発見した。


運転手「論理大学っていうのは一体なんですか?」
教授「例を出して説明するのがよさそうですね。あなたは草刈り機を持ってますか?」
運転手「ああ、持ってるよ」
教授「つまり論理的に言ってあなたは庭を持ってますね」
運転手「ああ、大きな庭だ」
教授「ということは論理的に言ってあなたは家を持っている」
運転手「とても大きな家だ」
教授「すると論理的に言ってあなたには家族がいると考えられます」
運転手「家内に子供が2人だ」
教授「つまり論理的に言ってあなたは異性愛者ということが分かります」
運転手「その通りだ!ここがなんの学校なのか分かったよ。どうもありがとう」


運転手が車に取って返すと、同乗者が学校について尋ねた。


同乗者「結局なんだった?」
運転手「例を出して説明するよ。君は芝刈り機を持っているかい?」
同乗者「いいや」
運転手「お前ホモだろ!」

よくよく考えるとこれの面白さは実際に論理学と多少の関係がある。
教授が例を出して説明してくれたのは「内含」、つまり「○○ならば××」であるということだ。
内含関係には推移律が適用できるので、教授の説明から「草刈り機を持っている人は異性愛者である」と言える。
これが真であるという仮定においてこの運転者は同乗者に教授と同じ質問をしたところ反対の答えを得た。
運転手がこの回答を基に誤った判断を下したのは、彼が「命題の裏の真偽は必ずしも一致しない」ということを理解していなかったからである。
以上のことから論理学の基礎が直感的に理解できていないとこのジョークは面白くない気がするのだが、実際のところ論理学などに興味のない人から見てこのジョークはどのように見えるのだろうか。

ストレスフリー教育

先週読んだ記事だけどこれ
 赤ペンは威圧感が大きいと、「紫ペン」採点が増加 米の学校
内容はまあ

ワシントン(AP) 米国の学校では、このところ赤ペンによる採点が見直されている。赤だらけになって返ってくる答案用紙は子どもへのストレスが大きい、と異議を唱える保護者が増え、その結果、紫色のペンで採点する先生が増えている。

ということなんですが、これってどうなんでしょうかね。
どうも最近、子供にストレスを与えないようにとか叩かないようにとか本人に考えさせるのが重要とかカッコイイことばっかり言われてる気がする。
こうやってストレスを与えないように大事に大事に育てるのってすごくまずい気がする。


こんなに大事に育てられた子供でも、そのうち社会に出なきゃならなくなる。
でも社会は別にその子たちにストレスを与えないようにとか誉めて育てようなんてしてくれるワケがない。
社会は言うまでも無く理不尽なもので、自分のせいじゃなくても責任をかぶらされることもあるし力があるものには黙って従わなくてはならないこともある。
社会に出て初めてそのようなストレスにさらされる人は果たして対処できるのだろうか。
さしたる根拠も無く言うのもなんだが、ストレスに曝されることでしかストレス耐性をつけることは出来ない気がする。
これまでに理不尽な先生や自分でのせいはない逆境などに遭うたびに、なんとか自分の力で状況を変えていこうという努力を払うことを覚えてきたと思う。
まるで意味の無いような校則に従ったりするのだって、社会に出たら理不尽でも従わなければならないルールがあることの予習みたいなもんだ。
別に殴られたおかげで打たれ強くなったからといって殴った人に感謝するつもりは無いが、学校でストレス耐性をつけなかったらどこでつければいいのだろうか。
むしろ学校では怪我しない程度に殴ったりテストの順位を廊下に張り出したりするくらいのほうがいい。

病めるときも健やかなるときも

週末の夜中にホーリーランドを見るべくテレビを付けっぱなしにしていた。
ホーリーランドの前の時間帯に"怒りオヤジ"という番組がやっていて及川奈央が出ていたのもあって視界の端でちょっと気にしていたのだが、今回は浮気グセがどうしても抜けない女の人を出川哲郎が説教していた。
出川は「1人の人を愛しつづけるということがどんなにすばらしいか」を切々と説いて、女の人の方も大方同意していたようだ。
どうやらそもそもこの番組は"オヤジ"に叱られたい人が自ら出演する番組のようで、この番組に出る時点でこの人は「浮気は悪いこと」という自覚があるのだろう。


いつも思うのだが、浮気はなぜそんなにも悪いことということになっているのだろうか。
僕にはどうやら精神構造になんらかの欠陥があるようで、浮気は悪いことという前提をすんなり受け入れることが出来ない。この欠陥が遺伝的なものか教育的なものかはわからないが。
「1人の人を愛しつづけること」というのは別に誰か他の人を好きになることと両立可能な気がしてしまう。


友人の結婚式に招待されたときに、いまさらのようにふとひらめいた。
「あなたは健康なときも病気のときも生涯○○を愛することを誓いますか?」「はい、誓いますっ!!!!」というアレだ。
なぜわざわざ衆人環視の中で神にまで誓わなければならないのかというと、これほど大仰に誓わなければ実行不可能なほど難しいことだからなのだ。
そしてこの誓いに「健康なときも病気のときも」が入っているのは、これが相互扶養の契約だということなのだろう。
それにしても「愛する」という感情について生涯というスパンでコミットするというのはあまりにも現実性が乏しい気がする。
僕が感情について誓えるのはせいぜい「この瞬間あなたは○○を最も愛していますか」くらいまでだ。
思い切ってこれを「あなたは健康なときも病気のときも他の人を愛しているときも、生涯○○と助け合うことを誓いますか?」にしたらかなり感覚とマッチするのだが。


きっとこんなこと言ってるからいつまでも結婚できないんだなあ。

論理と感情は両立します

恋愛や結婚に対するスタンスなどに関して話をすると、「ヒデさんって感情とか無いの?」と言われることがある。
そりゃだれだって感情はあるだろう。
物事を論理的に考えるということと感情を無視するということを同義に考えてしまう人がわりと多い気がする。


発言小町にもこのようなトピックが立っていた。
 合理的論理的に進める人って悩み無いの?
このトビ主さんが考えている"悩む"という行為はどうやら、対応策を模索することなく悶々とするという意味のようだ。
このように考えるのが感情なのであって、論理というのはそれと相反するものであるという考えなのである。
論理で割り切れないのが感情だということだ。
そのように決めてしまったら、もう物事を論理的に解決することは出来ない。


僕は問題を論理で解決するのが好きだが、決して感情が必要無いと考えているわけではない。
そもそも「論理で解決するのが好き」というのすら感情だ。
感情が発生するのは、生き物が生きていく上で都合のよい状況を心地よいと感じるようにプログラムされているためなのだから、感情を満足させること自体が生きていることの目的であると言ってもいい。
問題は、"感情は論理では解決できない"と考えてしまうことなのだ。


例えば何か欲しいが手に入りにくい物があるとする。
「手に入らないのは分かるけど、私は感情の人だからどうしても欲しい!この気持ちは論理ではどうにもならない」と考えて悶々としてしまう人はもうこの問題を解決することは出来ない。
「これが欲しいが、どうすれば手に入るのか。」と考える人の方がそのものを手に入れることができる可能性は高まる。
つまり、論理的に考える人こそ自分の感情をより満足させようとしている人なのだ
また多くの場合感情は定量化でき、例えば金額などに換算できる。
先ほどの例のように何かが欲しいときに、「この気持ちはお金に換算できない」などということは無いのだ。
例えば「犬が飼いたい。お金の問題じゃない」と言っている人でも、「犬を飼うのに一億出せるか」と聞けばほとんどの場合はNOのはずだ。
じゃあ1000万は、100万はと考えていけば、犬を飼うことに対して自分が払ってもいい対価というのは明らかになってくる。
具体的なイメージを持つために、それだけの金額を稼ぐのに必要な労力や同じ金額で可能になるほかの楽しみなどをリストアップしてみるとなお良い。
それらを全て考慮して犬を飼うかどうか決めればいいのだ。
その結果犬を飼わないことに決定しても「やっぱりあきらめきれない」と"悩み"続けるのは単にエネルギーの浪費であって愚か者なのである。


先日ケーブルテレビを解約したところ、全ての民放の写りが劇的に悪くなった。
僕は普段テレビを見ているときはノイズがあってもさほど気にならないしそもそもテレビをあまり見ないのだが、山本梓の出ているテレビ番組だけは全て録画してエンコードして保存しておりこの時はノイズが非常に気になる。
ケーブルテレビを再契約しようかと考えていたが、これによって一ヶ月3800円の費用がかかる。
山本梓の出演する番組は月に10本弱であるので、1本に500円払う計算になる。
500円はテレビ番組1本に払っていい金額だろうかと論理的に考察した結果、録画はあきらめて山本梓のDVDや写真集を買うことにした。



#追記[2005.04.15] この記事にはたくさんのサイトからリンクしていただいて、昨日などは(比喩でなく)普段の100倍ほどのアクセスがありました。
リンクしていただいたサイトは"リンク元"からたどってほぼ全部見させていただきましたが、僕が言い足りなかったところや考えてみなかった切り口からの言及などがたくさんあって参考になりました。
色々な人の意見が聞けるのはやはり楽しいものですね。