豊かさと幸福

週末になんとなくつけたテレビでやっていた瑠璃の島を見ていたのだが、本筋と関係ないところで非常に印象的なセリフがあった。
番組を見ていない人のためにちょっとだけ解説するとこのドラマは、過疎化のすすんだ離島で、廃校寸前の小学校を救うための頭数として連れてこられた少女と周辺の人々の心のふれあいとか成長とかまあそんなあたりを描いたものだ。
主人公の瑠璃はいくつかの葛藤を乗り越え、最後には自分の意志でこの島で生きていくことを決意する。
ここでドラマとしてはだいたい完結したのだが、このあとの最後の最後に次のようなシーンが挿入されていた。
瑠璃が歩いていると、たらいに汲んだ水で農具を丁寧に洗っているおばあさんに出くわす。
おばあさんはいくつかある農具を見せながら言うのだ。
「次はこれも洗うんよ。この島にはね、水道が無かったから水は宝物だったの。何も無い島だからね、全部が宝物なんだよ。全部がね。全部。」
セリフはちょっと違っているかもしれないけど概ねこんな感じだったと思う。(セリフ後半、島ネコになりたくてさんからいただきました。)
なんか思い出しても不覚にも泣いてしまいそうなセリフだ。
よく考えたら本筋と関係ないどころか本質をするどく突いたセリフのような気がしてきた。
島で生きる決意をした瑠璃が気づいたものがこれだったってことなのかもしれない。


B.シュワルツの研究によると、ある種の人々は物質的な豊かさによって幸福感が低下するとのことだ。
もし人間を大雑把に"もっといいものがあるはずだと常に追求する人"と"適当なもので満足する人"に分けたとしたら、僕はまず間違いなく後者に属していると思う。
なにを食べてもおいしいと思うし、自分が手に入れた物よりもっといいものを後になって見つけた時にもさほど後悔することはない。
一方で、"追求する人"はびっくりドンキーのうまいハンバーグを食べていても「銀座で食べた2万円のステーキの方がうまかった」と考えてしまい目の前のハンバーグを楽しむことができない。
冒頭の瑠璃の島のおばあさんは極端に選択肢の少ない人生を生きているがゆえにひとつひとつの物が宝物になっており、それゆえに豊かな人生を生きてくることができた。
僕自身も豊かさのなかに埋もれて幸福感を見失いがちになっていることが多いが、小さい頃からあまり物質的に甘やかされずに育ってきたおかげで比較的小さなことでも喜ぶことができる。
これは非常に幸運なことだと思う。


そんな中でも、選択肢の多さによって僕の人生から間違いなく失われている幸福感がひとつある。
昔はゲーム1本買うのに半年前から開発状況のチェックをして、買ったときは嬉しすぎて家に帰るのが待ちきれずにその場で封を切って説明書を読んだりしたものだ。
いまはいつの間にか発売されていたゲームをなんとなく買ってきて、封も切らずに半年も放置してある。
ゲーム自体の品質は圧倒的に上がっているにも関わらずだ。
つまりゲームの発売本数多すぎ。